介護日記③

世話をしないが同居されていると受けられるはずの介護サービスが一部受けられない(同居人がいるとその人がやってくださいと受けさせてもらえない)。どうしたものかなと思っていた矢先に、父と別家族が家のドアを破壊するぐらいの大喧嘩をした。
私はその日疲れていたので今日は下の家に行かないと父は1人で食事を届けに行った。そこで祖父の食事の準備をする別家族と遭遇し「もう祖父の世話もしたくない」という言葉を聞いて大爆発した。「我儘ばっかり言って、何もしないなら家から出て行け」と怒鳴られ、別家族はその日のうちに家を出た。祖父母も大声を聞きつけてコソコソと様子を見ていたらしいが、祖父は「親の顔を潰すなよ」と止めもせず訳のわからないことを言っていたらしい。


という経緯で、別世帯の我が家が祖父母2人の世話をすることになった。ただ2人とも仕事をしているので、四六時中世話などはできない。朝ごはんや昼ごはんは前日夜に準備して、硬質ケースに入れた紙にそれぞれのどの分の食事かを書いて一緒に置く。2人分の食事を父が上の階からは一気に運べないので私も手伝う。
父は自分の親の介護を自分の家族の介護放棄が原因で手伝わせているのはとても申し訳ないと思っているのが伝わった。それでも今私がこれを放棄したら父は壊れてしまうと思ったし、話を聞くことしかできないが話を聞いては手伝った。

本来であれば同居家族が連れて行くはずだったメンタルクリニックは診察券をどこに置いてしまったかわからないので予約を取り直して診察券も再発行してもらって、薬を貰いに行った。

その間に父は2ヶ月の介護休業を取ることを決めた。
介護休業中は無給になるし、まして父は異動したばかりだったので心配したがこのまま仕事中もいつ祖母から訳のわからない連絡がくるのかと思ったまま仕事はできないという判断だった。
介護休業の間に祖母の介護認定の区分を変更するのと入居できる施設を探す、祖父には自分の食事はコンビニなどで自分で買いに行けるように練習するつもりだった。


という計画を同居家族が出て行った後に立てていたのが、家出から2週間ほど経つと下の家で祖父母以外の人の気配がする。不思議に思っていると同居家族のスリッパがなく部屋のドアが閉まっている。戻ってきたんだと知った。
大喧嘩した父が行ってもまた大喧嘩するだけなので、私が「戻ってきたのか?ただ荷物を取りに来ただけなのか?いつまでいるのか?」と聞くと「ここは自分の家なので戻って来たし、ずっと居る」と答える。介護が嫌で出て行ったのに、結局1人では暮らせず介護もせずに居座るつもりかと思ったがそこは自分が口出すことではないのでグッと堪えた。
そのまま我が家が祖父母の食事の準備や世話をしていたが、ついに食事を届けに行った父と同居家族が顔を合わせた。
父が「今まで全部世話をしてもらって介護が嫌で出て行ったくせに戻ってきたってどういうことだ。そんな我儘は通らない、何もしないなら出て行け。」と言うと「全部自分がやる。こんなしょぼい食事しか準備していないのに大きな顔をするな。じゃあアンタは何をしてくれるんだ。」と怒鳴ったらしい。
結局感情的になって1人では出来ないという父の言葉も「うるさい」と聞かず、祖父母の食事・通院などの生活全般の世話は同居家族1人で、介護保険などの手続き関連は父がすることになった。介護認定の区分変更などは生活の話をしなければならないので前のように3人で分担してやるのが現実的だったが、自分の感情でしか判断ができない同居家族に冷静な判断を求めても無駄だった。

同居家族側にも言い分や、親に対する想いや、元々好きではない兄への気持ちなど山ほどあるのだと思う(兄からの正月の挨拶を無視するほど)。
でもそれとこれとは話が別で、今まで50歳以上になるまで1度も家から出ずに何不自由なく生活できているのは何が気に入らなくても間違いなく祖父母のおかげだ。
そして介護義務は子供達にあるし、同居している家族には重くのしかかる。1人でやれと言うのではなく、こちらも手伝うからというのは聞けずに0か100でしか判断ができない。同居していないだろう、と言いたいのだろうが私たち2人が同居するほどの広さなんてない。
同居が嫌なら出て行くしかないが、ここは自分の家だからと出て行かない選択をしたのは自分だ。それであれば何かしら関わるべきであると私は思う。というか、何で孫の私がやって貴方がやらないという選択肢が存在すると思っているんだ。甘い考えにも程があるのではないか、というのは私側からの意見である。



自分が準備すると言い始めたので祖父が自分で食事を買いに行く練習などはできなくなった。我が家は祖母が寝たきりになると危惧して体調が良さそうだったら1階に下りて食べさせるなど少しでも身体を動かしてもらったが、同居家族は下りてきてほしくないので自室からほぼ出さない(食事を届けてしまう)。
そんな中で祖母が入居できる施設はないかと調べてもらったが、そもそも常に酸素吸入をしていて熱があるなど嘘を吐き恐らく日に何度も呼び出すような患者は医療従事者がいる施設に入所だが、都内の施設はまず空きがないにそもそも料金がとても高い。難病と言ってもすぐに命には関わらず国や施設から緊急性があるかと言われるとそうではない。あとは精神病院しかないと言われ、誰かが仕事を辞めて自宅介護をするしかない状況なのかと父と私は絶望した。

そんなとき、私の誕生日の翌日、いつも通りに時間に帰宅すると父が電話をしていた。ケアマネジャーかと思ったが、明るくざっくばらんな口調で話している。失礼だが父も友人はあまりおらず、ましてや家のこともあってそんな話をする人なんていないだろうと思いながらリビングに入り、電話口から聞こえる自分とそっくりな声にひっくり返るかと思った。電話をしていたのは私の母だった。


長くなるので今日は私の父母の話が最後。
父母は私が小学校低学年のときに離婚した。私は父と暮らしていて、その間も色々ありすぎて割愛するが私が高校へ上がる前に母は実家がある鹿児島へ帰った。
それから約17年、私はコロナ禍前は年に1回ほど鹿児島へ行き母と会っていたが父は一度も母とは連絡を取らなかった。
母も母で色々あり、私は小さい頃は躾が厳しく怖すぎて苦手、父と別れてからは精神疾患もあり親になりきれない時と波がありすぎて好きではなかった。今年2月に行ったときは安定しており、これならもう大丈夫かと少し苦手意識が減り、今回の介護の件ではちょこちょこ連絡していた。
父は母の連絡先を消していたが母は消しておらず、今はケアマネジャーや訪問看護など様々な電話がかかってくるので知らない番号からの電話でも父は出るようにしていた。そしてちょうどこの時期は祖母がレスパイト入院をしており、家の電話が鳴ったあとに自分の携帯が鳴った。偶然が重なり、電話は繋がった。
電話が終わり、母から私にもかかってきた。「話を聞いてくれないかと思ったけど、ちゃんと話せたから良かった。娘に心配や迷惑をかけてばかりと泣いていて、本当に追い詰められていたんだと思う。話したのはね、貴方の(母方の)おじいちゃんも入院している病院に、遠いけどおばあちゃんも入れるかもって話。」と言われた。